コミュニケーションの言葉としての意味

そもそも、私たちが普段使っている「コミュニケーション」という言葉にピッタリと該当する日本語は見当たらないそうです。ですから、外来語である「コミュニケーション」を私たちはそのまま使っているのです。コミュニケーション自体の定義も、私が知る限り諸説あるようです。日本では、一般的に、お互いの考えや気持ち、価値観を伝える行為と解釈されています。

つまり、自分の頭や心の中にある感情や情報、意見などを整理し、他者へと伝えることとされています。日本人同士のコミュニケーションは、ある見方をすれば、お互いに既に知っていることの確認と言われています。

私たちは、同じ背景をもった同一民族であり、言葉も文化も同じですから、すでに知っている内容の確認を「コミュニケーション」としているというのです。

確かに、自分が知らないようなサプライズなどはたまにあるものの、いわゆる「メタ認知」という大きな枠組で自分たちを捉えれば、それらのサプライズも、実は、想定される既知の範囲なのかもしれません。私たちは、同じ集団で、時間と場所を長く共有してきた者同士でほとんどの会話をしています。会社組織の集団では、お互いにすでに知っていることを、それぞれが確認して会話をしているというのです。一度、自分たちの会話をここで思い起こしてみれば、確かに、ほとんどは既知の内容ばかりです。

例えば、社内でのある会話です。「田中さん、3年前にも同じことがありましたよね。覚えていますか。」と言えば、もちろん、相手はそのことについて覚えています。「そうそうそうでしたね。今回は、あの時とは事情が違うので、少し工夫してやりましょう。」といったコミニケーションになります。

一方で、異文化研究の中においては、コミュニケーションとは、自分たちが全く知らない事を知る事、あるいは、相手が全く知らない私たちのことを伝えることこそが真のコミュニケーションであるという主張があります。欧州は他民族で構成されていますから、文化も考え方も人によって異なります。自分の意見を伝えるのは、そもそもの共有する背景や環境が異なるのですから簡単なことではありません。

古くはアリストテレスが、コミュニケーションの3大要素として、「ロゴス(論理)」、「パトス(感情・情熱)」そして「エトス(信頼・人柄)」ということを言っています。また、人と人のコミュニケーションの学問については、その多くが西洋から日本に紹介されています。例えば、メラビアンの法則による非言語コミュニケーションや、人事の分野でよく耳にする「ジョハリの窓」や「積極的傾聴」などです。

つまり、こうしたコミュニケーションの技術が西欧から多くきている理由は、日本では、西欧で考えられているほど、自分の頭や心の中にある感情や情報、意見などを他者へと伝えることに苦労をしていないからではないかと思うのです。だから、西欧で使われている「コミュニケーション」という言葉にピッタリとハマる日本語がないのかもしれません。

同一民族による移動の少ない農耕民族である日本においては、言語での伝達においては、言外のコンテクストを多く含み、短い言葉で韻を踏んで言うことが行われてきました。そして、空気を読んだり、察したりすることができる人が優秀だと評価されます。多民族国家である西欧では、人々のバックグラウンドが異なるため、できる限り事細かに、言葉で説明しなければなりません。つまり、コミュニケーションには、日本よりもはるかに多くの労力が必要だと言うことなのです。

自分たちの コミュニケーションスタイルをよく理解した上で、外国語を習得することです。自分たちのコミュニケーションスタイルを基準で考えると、大きく間違ってしまうことになります。そして、日本語で日本人によるコミュニケーションが、いかに、言葉少なくコミュニケーションされているか、ということを認識することです。実は、こうした言葉数が少ない日本語を英語に翻訳すると、意図したことが伝わらないのです。ここが、いつも最も頭が痛い部分なのです。

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