かつて中国へ4年間、アメリカに3年半ほど赴任をしました。この約8年弱の間は日本で仕事をすることなく、連続してそのまま海外での勤務となってしまいました。この時に感じた、日本人の英語に対する強い憧れや嫉妬心といったものについてお話しします。
私が中国勤務していた90年代の当時、日本の本社に帰ってきた時にいつも言われたのは、「なかなか苦労の多い土地で大変ですね、食中毒とか、衛生面に気をつけてくださいね。」労っていただき、気遣いをしてもらいました。つまり「あなたは、私なんか到底行きたいと思わないような大変な発展中の中国にいらっしゃるのだから、さぞ大変でしょうね」というニュアンスでした。時として、中国という国を見下したようにも感じました。
一方、その後、英語圏のアメリカでの勤務の際は、まったく逆でした。羨望や嫉妬といった感情に気づくことになりました。日本の本社の人たちは「アメリカに行けていいなぁ、英語しゃべれるんですか、私も行きたいなあ」といった口調でみんなが話しかけてきます。そこには、アメリカに対する憧れや英語を使って生活しているという嫉妬心にも似た感情を感じました。しかし、実は、私が勤務した場所は、ニューヨークやサンフランシスコといった大都会とは全く違った田舎で、うさぎやリスがそこら辺にいるようなペンシルバニア州にあるのどかな小さな街だったのです。
出張で本社に中国人スタッフを連れてきた時に、中国語で話をしていてもさほど褒められることもないし、感動されることもなく、「あー、中国語喋ってるんだ」といった程度でした。しかし、英語でアメリカのスタッフと彼らの前で話をすると、「どうしてそんなに英語がしゃべれるんですか」とか、「アメリカで暮らせていいなぁ、私も英語が話せるようになってアメリカに行きたい」といったことを言われるのです。
私は、ブラジルにもいて、ポルトガル語も学習し、ある程度の会話はできるのですが、中国語、ポルトガル語を学習することは、英語と同様にそれ相応の努力をしないと習得できません。にもかかわらず、「英語ができる」というだけで、羨望や嫉妬心で見られてしまうのです。
これは、受験英語の弊害かもしれません。英語ができる人は、すなわち「成績が良くて頭がいい人」というふうに見られているのではないでしょうか。
慶応大学にいらっしゃった鈴木孝夫氏がおっしゃってらした「西欧ユートピア思想」ということをその後知ることになりました。それは、明治時代から大正、昭和にかけては、開国後、日本が学ぶ技術や知識は全て西欧からだったのです。しかし、日本人は、当時は、直接海外へ行くことは難しく、西欧からから来る書物や、日本に訪れた外国人から学んでいました。そして、「西欧から来たものは全て素晴らしいものだ」という考えになるのです。それは、日本で英語教育が始まった戦後も同じことで、いまだに英語に対する思い入れや憧れというものが日本人には強いのです。
私は、英語ができるから偉いと思った事はありません。英語を習得する上で、膨大な時間を費やし、それによって、失ったものも数多くあるからです。同様に、中国語やポルトガル語の習得にも時間を費やしました。実際の現場では、言語はツールであって、そんなことよりも重要なことにも当然気がついています。
TOEICが900点近い社員でも、チームワークが苦手でビジネススキルも低く、仕事があまりできない人も数多くいました。逆に、TOEICの点数は低いのですが、何とか外国人とコミニケーションをとって仕事をうまくと進めてくれる社員も数多くいました。
語学は、相当の時間を費やせば、ある程度のレベルにはなります。ただ、才能というものもあると思います。耳で聞いて口で話して、目で見て読んで頭で判断することが得意な人は、同じ時間を費やしても、レベルは高くなってしまいます。それは、バスケットボールが上手とか、速く走ることができることと同じで、得意、不得意が必ずあると思います。ですから、英語ができるから頭が良い、ということにはあまり賛成できません。
それよりもむしろ、英語をこうして30年以上を使って仕事をしてきた私としては、素晴らしい日本文化や繊細で複雑な構造を持つ日本語について、もっと深く勉強しなければならないといまだに思っています。そもそもの才能も必要ですが、母国語以上に外国語は上手になれない、という言葉もいつも心に留めています。