「話す・聞く」ができるのは「走るのが早い」と同じ

「話す・聞く」ができるのは「走るのが早い」と同じ外国人の来訪や海外出張に行った時に、自分だけが会話に参加できず、疎外感を感じてしまうことがあります。

みんなが楽しそうに会話しているのに、自分だけついていけなくて惨めな思いをしてしまいます。そして、「どうして私は英語ができないのだろう」「もっと学校の時に真面目にやっておけばよかった」と思うこともあるでしょう。

私も海外での生活も経験し、そういった経験は多くありました。いつ頃かからは、これはやはり、個人差や生まれた環境が大きく影響していると思うようになりました。特に「話す・聞く」についてはその人の才能や育った環境が大きく影響していて、努力して英語を勉強しても追いつかない限界があるのではないかと思うようになりました。

 以前読んだ本に、言葉を聞いて、それを受け止め、さらに、感じたことを英語で発信する一連の機能は、身体や脳の機能であり、それは幼少の頃に発達するそうでます。この言語機能は、赤ちゃんの時から3歳くらいまでに特に大きく発達するそうです。耳で聞いて言葉を理解し、それを言葉のない感情や感覚で受け止めます。さらに、その感情を言葉で口から発する一連の機能は、母国語のみならず外国語も同じではないかと思います。

 ですから、人によっては、おしゃべり上手な人もいればそうでない人もいます。また、カラオケは、歌のメロディを聴いて覚えて、そして声に出して歌います。歌が上手な人もいればそうでない人もいるように、それぞれの身体的な機能は人によって異なるのではないでしょうか。

英語が流暢な帰国子女たちは、家庭では日本語かもしれませんが、学校へ行くと英語です。学校では、耳から英語を聞いて聞いたことを言葉のない感情の世界へと変化させ、それをまた、言葉である英語で発することを子供の時に毎日繰り返すことになります。

そうであれば、日本人で生まれて、日本で英語習得を試みようとするのであれば、「話す・聞く」については、そもそもの才能という限界はあるのではないかと思っています。一方で、「読み・書き」については、後天的な努力で、「話す・聞く」以上に上達することができるのではないでしょうか。ですから、ネイティブのような流暢な発音や滑らかな会話を目指すのであれば、相当な努力が必要ということになり、その努力の結果でさえもまだ足りないのかも知れません。

英語での会話がこうした幼少期までの才能に寄るところが大きいとすれば、英会話中の疎外感や劣等感は持つ必要が無いというよりも、そもそも仕方がないことだと思うようにしています。それは、走るのが速いとか、ジャンプが高く飛べるとかと同じです。

自分の努力で限りなく高いレベルに近づくことはできるでしょう。しかし、ネイティブのように話せなくても、また、会話に参加できなくても、自分を責める必要はありません。そもそもの才能が関係していると思いますからそこは割り切って受け入れることです。

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