昭和時代の発言は

新しく出版するために、原稿を書いていて気が付いたことがあります。私は、「文賢」というAI搭載の校正ツールを使っていて、表現方法の提案や読んだ感想まで聞かせてくれる便利なものです。

その機能の中で、「炎上チェック」というものがあります。つまり、特定の個人や集団を批判していないか、また、差別やコンプライアンスに反する表現がないかをチェックしてくれるのです。

たとえば、特に誰かを批判する意図はないのに「東京の人は冷たいです」とシンプルに書いてしまうと、ステレオタイプとAIに判断されて、批判を浴びる恐れがあるので書き直しを提案されます。そうならないようにするためには、少々面倒ですが、具体的にやわらかく書き直す必要があります。

「東京では人口も多く、さまざまな地域から来ている人がいます。中には、友人も少なく、他人にあまり関心を持たない人もいることでしょう。ですから、私が今、住んでいる街では、自分の故郷の村のような、近所の寄り合いもなければ交流もありません。ですから、時々、冷たい街だと感じ、寂しく思います」といった具合です。

他には、実際に会議するのに、イタリア人のマネージャーたちが遅刻ばかりするので「イタリア人は会議の開始時間に遅れる」という「イタリア人」という一括りの表現をすれば、ステレオタイプと判断されてしまい、書き直しを提案されるのです。

日本語では、書き言葉であれば、文字を増やして日本語が持つ独特のコンテキストや、省略された主語や目的語を補っていけば、面倒ですがなんとかなります。

しかし、会話での発言ではどうでしょうか。考えたら、少し、ゾッとします。日本語では、省略した言葉で会話することが多いので、何気なく発言した内容が、意図せずに差別や批判と取られかねないからです。

先に述べましたように、日本語の特徴では、気がつかないうちに相手への意図の理解を期待し、コンテクストを多く用いて主語や目的語を省略した表現で話しているのです。ですから、言葉の部分だけを切り取られると、とんでもない差別発言になってしまうこともあるのです。


そう考えると、私にとっては、本当に窮屈な時代になったような気がします。タイトルにもありますが、最近あったテレビドラマ「不適切にもほどがある」であったように、昭和では、あまりこうした差別発言は、現在ほど理解が深くなかった時代でした。

自分が話したことや、書いた事で自分が意図しないのに差別や批判として受け止められるのはとても悲しいことです。このブログを書くにあたって色々と調べていたのですが、そもそも、西洋における差別とは、その集団に対する嫌悪感や悪意、そして暴力といったものが背景にありながら差別を行うものであるという意見がありました。

確かに、悪意もなく、相手を傷つける気持ちがまったくないのに、差別と捉えられると、発言者としては非常に 残念な気持ちになります。ただ、現在ではそうしたことがスタンダードになりつつあるので、これからは、ますます、発言に注意しなければならない時代になると思います。

年功序列の会社組織であれば、若い世代は、ただでさえ年長者へ意見が言いにくいのに、ますます窮屈になってくるのではないでしょうか。昔の私の職場のように、何かあったとしても、みんなで酔っ払って、はい、それで終わり、と言うわけにはいかない時代になりました。

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