日本語は短く、英語は長い

 英訳をしたり、和訳をしたりするときに経験があると思いますが、日本語を英語に翻訳すると、日本語の文字量の2倍くらいになることがあります。理由は、日本語には漢字という、すごく便利な文字があって、いちいち細かく説明しなくても、熟語を使い、その漢字が持つ意味を組み合わせて、読み手に意味を伝えることができます。また、熟語を知らずとも、漢字どうしの組み合わせで、日本人ならば、おおよその意味は理解することができるのです。

 例えば、「葉緑素」というと、その意味を詳しく知らずとも、植物の緑の素で、何らかの機能をもつものではないか、と想像がつきます。しかし、英語で、”chlorophyll”と言われても、もし、その単語を知らなければ、それが植物に関係あるかどうかもわからないのです。

 さらに、古来より、日本では、和歌を楽しむ習慣があり、短い言葉で、さらに言葉に韻を踏み、言外の意味をほのめかすし、それを読み手が推し量ることで、読み手の想像をさらにかき立てるという独特の文化があります。つまり、短い言葉で表すことが、かえって、読み手の想像を働かせる良い表現となります。

 一方、英語では、漢字という便利なものはもちろんありません。また、文化的には、多民族社会ですから、国境が陸続きである欧州では、さまざまな文化的背景や価値観をもった人が同じ場所にいることになります。こうした人たちと正確にコミュニケーションを取ろうとすれば、事細かに言葉で表すことが安全です。

 日本のように単一民族であれば、お互いに通じる共通の価値観がありますが、多民族社会ですと、宗教も異なりますし、日本のような共通の価値観が持ちにくくなります。ですから、曖昧な表現では、誤解を招いたり、なかなか正しく通じないことがあるのです。

 英語での表現は、言外に含みを持たせる事がほとんど無いので、そこに書いてある通りであって、目で見て、読んで、その通りだということです。ですから、私たち日本人からすれば、わかりきっているような事ですら、いちいち文章で説明したり、くどいと感じるような長いコミュニケーションになります。物事についても、曖昧にせず、はっきりと白黒をつけたがる言い方になります。こうしたコミュニケーションでは、私たち日本人にとっては、相手を高圧的に感じたり、くどくて話が長い、と思えたりしてしまいます。

 こうした理由から、曖昧で行間に意味のあるような簡潔な表現の日本語をそのまま英語に翻訳すると、なかなか相手に伝わりにくくなるのは当然です。すでに「空気」として認知していることを、まずは文章で説明してから翻訳を始めなければなりません。「そもそもこれは」、「この話題が今話されている理由は」といった始まりの部分には気を使います。

 また、和製英語である言葉もそのまま使うと大きな誤解を生じます。例えば、「ボーナス」という意味は、もともと、何かを達成した時に、その人に、「インセンティブ」として支払われるものです。しかし、日本の場合は、正確に言えば、「ボーナス」ではなく、「季節的生活給」といった”seasonal special payment”といった表現の方があっていると思います。そうしないと、「業績が昨年より悪いのに、なぜ全員のボーナスを出すののか」といった要らぬ誤解を相手から招き、その後の説明に時間を取られるからです。

 一方、日本や東南アジアを代表とする文化では、言葉や文章のみならず、それ以外の言外の空気や流れで何かを伝え、文字や言葉に詳細にいちいち出さないというものです。これは日本のように、単一民族社会であり共通の価値や宗教を持つ社会に多くみられます。日本では島国で単一民族であり、国内での移動・移住も多文化圏に比較して歴史的にも多くありません。

 つまり、「村社会」であり、長い間かけて、お付き合いをしているから、お互いのことをよく知っている者同士なのです。逆に言えば、これからも友好的関係を長期にわたって継続していかなければならない間柄であるため、将来もお付き合いせざるを得ないから、当たり障りのない日本語の表現を好み、はっきりと物事を言うのを好みません。

 こうした環境では、いちいち言葉に出すとかえって礼を失することになり、人間関係を悪くする可能性があるということなのです。物事は曖昧に決めておき、将来に何かあったときには話し合って、柔軟にその場を丸く収めるように対応するのが日本なのです。

 

 

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